ごきげんよう。

イチでございます。


ichi



もう11月も折り返しか…!と、急いで買った来年の手帳はハムスターがプリントされたものです。

以前購入したハムスターのカレンダーとともに、来年が少し楽しみになりました(^^)

(しかも先日シズクさんにハムスターの靴下を貰ったのです!履くのがとても楽しみです。)


旅人さまは楽しみなこと、ございますか?


未来の楽しみ、と表現すると。

前に、先生とお話した内容を思い出します。

その先生は、ギリシャ哲学を研究していらっしゃいます。


そのころの私はすっかりショーペンハウアーに惚れ込んでいて、ショーペンハウアーの"この世界に幸せはない、あるとしたら、それはたんに苦痛でないという状態だ"という考え方にビリビリと痺れていました。


幸せが基準になるのでなく、苦痛が基準になっているのですね。デフォルト苦痛です。残念ですね!ふふふ。

今でこそ手放しに「しあわせ!」なんていえますけど、当時の私は捻くれていたので、「幸せなんて本当にあるのか…?」と考えていましたから。


話は戻りまして、とある日。

その先生とお話をしていました。


「ギリシャ哲学の考えでは、未来の楽しみなことや希望も含めて"幸せ"と考えることができます。イチくんは、それでもショーペンハウアーと同じように"幸せはない"と主張しますか?」


「はい。"幸せ"は変質またはすぐに無くなるものであって、多すぎると怠惰を招き、少なすぎると絶望へ導くと感じます。こんなに不安定なものをあると言い切るよりは、ショーペンハウアーのいうように、"幸福はない、あるのは苦痛でない状態だけだ"という言い方をするのが、少なくとも私にとっては現実的で、納得できる考えだと思います。」


こんな内容だった気がします。

ちなみに、私の前半の考えはカントの道徳形而上学原論の影響を強く受けています。


少し経ちまして、改めて考えてみたのです。


"希望を抱ける今"※1を切り取るのであれば、今まさに苦痛でない状態だといえるのだとします。

もうひとつ考えることは、希望を抱いた未来が思い通りにいかなかったときです。

"その瞬間=※1"が苦痛でない状態であるのだから、それも含めて幸せといえるのかもしれないと。

自分の考えと先生の考えをつなげてみたわけです。

残念ながら個人的には、それは違いました。

結果が思い通りにいかなかった場合の今は、苦痛でないとは言い難いからです。

(先生は過去現在未来すべて、私自身は過去現在未来すべてを踏まえたうえでの現在に焦点をあてているからだと思います)


しかし、結果に左右されない(さらに先の未来を今に取り込む)ということは、私の好きな生の哲学や実存主義と本当に少しだけ、近い気がいたしました。

このことにより自分が理解できなかったことへの糸口あるいは共通項が見つかったのではないかと嬉しい気持ちになりました。


私にとって、人間の幸せを考えるのであれば、それは"ひとりでないこと"です。

(友達がいるいないという枠ではなく、自分を認識する存在がいるいないという枠です)


人間は自己のみで完結するとは思えません。

私という存在があり、自意識があり、それを疑ってる自分だけは疑い得ないなんて思えません。

それを観測する何かがあって、初めて、自分を確認し、理解し、形作るのだと思います。


結論として言いたいことは…

自己と自己でないものがあることによって、なにかが意味を持つとします。

意味を持つということは、人間という生き物にとって、一番尊くて切実な現象だと思うのです。

(これを楽しく学べるのがFate/GrandOrderだとも思いますが…)


テイトウワさんの『火星』という音楽では、「ふたりでいればどこにいてもここになる」という歌詞があります。

最小であり最大である、この表現が大好きです。 田村隆一さんの『帰途』という詩も好きです。


前に、ライゼさんと表象についてのお話をしましたが(表象という言葉ひとつとっても色々な意味があるのですが…)私にとっては、つまりそういうことなのです。


旅人さま、メイド、私はいつもみなさまを認識しています。意識的にも、無意識的にも。

みなさまも私と同じようにあればいいなと思うのが、私の希望です。


長くなってしまいましたからこの辺りで…

ここまで読んでいただいた旅人さまには、イイコトを教えます!


…寝る前は暖かいはちみつレモンがおすすめですよ(^^)


それではまた、館内でお会いいたしましょう。